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光明寺(こうみょうじ)は三重県伊勢市岩渕3丁目に位置する臨済宗東福寺派の仏教寺院である。山号は金鼓山(きんこざん)。南北朝時代の南朝方の武将結城宗広の終焉の地とされ、近世の伊勢神宮周辺では唯一鐘楼を許可された「光明寺の一つ鐘」で知られる。 == 歴史 == 寺伝では天平年間に聖武天皇の勅願により伊勢神宮外宮宮域の南方の前山の鼓ヶ岳(現伊勢市前山町)に創建されたという。ただしこのことは史料にはなく、もとは外宮宮域の北方の山田の世木(現在の伊勢市駅前付近の伊勢市吹上、勢田川左岸)の世木神社の近くにあったという。光明寺の古文書に外宮神職であった度会氏の世木広光が創建したと記されていることから、こちらが定説とされる。いずれにせよいつから世木にあったのか定かではないが、鎌倉時代の天福2年(1234年)に広光が一族に所領などを分割譲渡し、「先祖氏寺光明寺務執行」と嘉元3年(1305年)に記録されていることから、当寺が世木氏の氏寺で、周辺に農地などを有していたことがわかる。 鎌倉時代末期の元応元年(1319年)、禅僧の月波恵観(げっぱえかん)に再興されたと光明寺残篇(国の重要文化財)に記されている。恵観はもともと天台宗であったが、東福寺の禅師癡兀大恵に師事したことから当寺が臨済宗に改宗されたと考えられる。 恵観は結城宗広の息子であったといい、再興から間もなく迎えた南北朝時代には、玉丸城(のちの田丸城)が築城されるまで当寺が南朝方の伊勢国での重要な拠点の1つとなった。建武元年(1334年)には後醍醐天皇の綸旨で祈祷所とされ、建武3年(1336年)にはすでに高齢であった外宮神職の度会家行の助力もあり後醍醐天皇皇子の宗良親王とともに伊勢に赴いた北畠親房が当寺を訪れた。 延元3年(北朝方では暦応元年、1338年)、足利尊氏率いる北朝方が九州で勢力を回復したのちに反攻に出て南朝方が形勢不利となったとき、親房・宗広らは巻き返すために本拠地の奥州で勢力を回復しようとした。義良親王・宗良親王を奉じた一行は、伊勢の大湊で調進された52隻の船団で9月に大湊を出帆するものの暴風雨により遠州灘で遭難してしまう。四散した一行のうち宗広は世木にあった当寺で再起を図るが、高齢であったこともあり病に倒れ、同年11月21日(1339年1月1日)に70歳で没する。病死とするのが定説であるが、自決であったともいう。宗広の遺体は当寺境内の「結城宗廣卿墳墓」に葬られたとされるが、光明寺ではなく安濃津(現津市)で没したともいい、宗広を祀る結城神社が創建されている。 安土桃山時代の天正年間(1573-1591年)、伊勢神宮の要請により周辺で梵鐘を突くことが禁止された。これに抗議した当寺のみが豊臣秀吉から許可を得て近世の伊勢神宮周辺で唯一鐘楼を有したことから「光明寺の一つ鐘」と呼ばれるようになった。この鐘は鎌倉時代の建長年間(1249-1255年)に朝廷から贈られたものと伝えられるが、事実でないともいう。破損したため元和5年(1619年)に外宮権禰宜の出口延繁が寄進した。 寛文10年(1670年)に山田で起きた大火事(山田大火)では、当寺は被災した227か寺の1か寺となった。山田奉行が外宮宮域に近すぎるとして移転を命じ、現在地の勢田川右岸の岩渕に移転した。結城宗廣卿墳墓はその後も永らく世木にあり吹上の古墳と呼ばれていたが、昭和23年(1948年)に現在地の光明寺境内へ移転されたものである。山田大火での焼失を免れた光明寺所蔵の古文書は、寛文年間に度会氏の出口延佳・出口延経親子が調査、書写して『光明寺旧記』を編纂し、幕末には足代弘訓が徹底的に調査し30巻にまとめた。これらの文書は内閣文庫に『光明寺古文書』として所蔵されている。 明治維新後の廃仏毀釈で伊勢神宮周辺では196か寺が還俗寺・廃寺となり、91か寺が残された〔『三重県の地名』(平凡社)663頁〕。当寺は廃寺には至らなかったが塔頭4か寺と末寺21か寺を失い、本堂・鐘楼と山門(安永6年、1777年)を残すのみに衰退し、本山の援助を受けることとなった。明治元年(1868年)11月に設立された宇治学校と山田学校が明治3年6月(1870年)に合併され、当寺境内に校舎を置く度会県学校となるものの、翌4年(1871年)1月12日に休校となり再開されることはなかった〔『宇治山田市史 下巻』(宇治山田市役所編、昭和4年発行、昭和63年復刻、国書刊行会発行)1114-1115頁〕。 大正期に宗広に奉納する能楽「結城」が作られ、命日の11月21日に近い日曜に伊勢市通町で通能を伝える勝田流により当寺で奉納される。〔すばらしきみえ (百五銀行)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「光明寺 (伊勢市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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